2008年2月20日水曜日

噴水台 オリベラ王女

噴水台 オリベラ王女

中世時代の終末は普通、ビザンチン帝国の滅亡とされる。 コンスタンティノープルは1453年、オスマン帝国によって陥落された。 崩壊の前兆はすでに1389年から表れていた。 彼の有名なコソボの戦いだ。 広い野原で、セルビアのキリスト教連合軍とオスマン帝国のイスラム軍隊が真っ向からぶつかった。 双方の王がともに犠牲になるほど壮烈な戦いだった。 この歴史的の戦闘はオスマン帝国の勝利で終わった。

この時に登場する悲運の女性がいる。 セルビアの美しい王女オリベラ・デスピナ(1372-1444)。 セルビア歴史家は、彼女が18歳の時、父を殺害したオスマン帝国の後任スルタンと強制的に結婚したと教えている。 スルタンが彼女をハレムに連れて行き、性的な対象と見なしたということだ。 オリベラはその後、30歳の時、また屈辱を受ける。 オスマン帝国に侵攻したティムールに捕まったのだ。 セルビア民族主義者らは、ティムールが祭りの度に彼女を呼び、裸でワインを注がせたと主張する。 オリベラ皇后の人生流転はセルビア人の心に琴線に触れる。 これ以上の歴史的悲劇はないからだ。

しかし事実は少し違う。 オリベラの政略結婚は自己救済策だった。 コソボの戦いの直後、ハンガリーが侵攻してくると、セルビアが昨日の敵だったオスマン帝国にまず手を差し出したのだ。 何よりもオスマン帝国のスルタンは彼女を深く愛していた。 彼女にキリスト教を許し、セルビアには破格的な自治を認めた。 ティムールがオリベラを苦しめたという部分は疑問だ。 セルビア人の間で語り継がれてきた内容にすぎない。 イスラム圏の史料は正反対だ。 ティムールが捕虜のスルタンとオリベラを手厚くもてなした、という表現が出てくる。 スルタンが死亡すると、ティムールが深く悲しんだという記録も残っている。 オリベラは72歳の天寿を享受した。 セルビア側の解説は信じ難い点が多い。

コソボが17日、セルビアから独立を宣言した。 バルカン半島がまたざわついており、‘人種清掃’‘無差別空襲’などの激しい言葉が出ている。 コソボの戦いから数百年間、力の空白になったこの地域には、隣のアルバニアのイスラム教徒が押し寄せた。 今では人口の90%以上がイスラム教徒だ。 かといってセルビアがすんなりと独立を認めるような感じではない。 彼らにとってコソボは民族的聖地だ。 しかし憎悪を教えれば憎悪を生む。 セルビアの諺に「真実は硬いクルミの中にある」というのがある。 難しいが、セルビア自ら歪んだ民族主義を捨てなければならない。 そうしてこそクルミの中の真実が見え、平和が訪れる。

出典:中央日報