季節の旬を知る。心も豊かになり食事の愉しさも倍増する。
子供の頃、家の前に柿の木が植えられており、丁度この季節になると柿の実を採って干し柿を作るのを見ていた記憶がある。渋柿は干し柿にすると甘くなるから不思議だった。生柿の甘さとはまた違う格別な旨さは今も忘れない。その柿の木も都電の廃止と共に始まった道路拡張とやらで抜き取られてしまった。昭和40年代の事だっただろうか。
当時、我が家には母方の祖母が居たのだが、明治生まれで、煙草が好きで、毎日「しんせい」と云うブランドの煙草を鋏で切っては、長い煙管(キセル)で吸っていた。まるで江戸の錦絵にでも出てきそうな吉原遊郭の女将の様な風情だった。そして、この婆ちゃんが怒ると怖い。こちらが何かやらかすと怒鳴る前に煙管の先で頭をガツンと叩くのだ。これが、痛いのなんの、コブが出来る程叩かれた。煙管の手入れをする為に、婆ちゃんはちり紙を細く裂いて紙縒(こより)を作っているのだが、僕がそれを何本か抜いて、従兄弟たちの鼻の穴に挿して「くしゃみ出しごっこ」なる遊びを考案して遊んでいたら、婆ちゃんに見つかり、上からゴツンと煙管が飛んできた。先日、目黒川近くを歩いていて、柿採りをしている家があり暫くその様子を見ていたら、元気だった頃の婆ちゃんの姿が浮かんできた。遠い昔の記憶も今では良い思い出だ。
僕は俳句が好きなので、四季の移ろいを草木や果物、食材などで感じる事が多い。9月に入り、果物店に長十郎梨が並ぶと夏も終わったかと想い、梨から柿に変わると今度は秋が深まったナと想うのである。まぁ、別に俳句に興味が無くっても季節の花や旬の食材などを知っていると会話も愉しく弾むものである。
ところで、最近はハウス栽培とか養殖もの、遺伝子組み換えもの等々が増えてきて、一年中季節の味を戴ける凄い時代になったが、流石に僕らが足を運ぶ割烹、鮨店、レストラン等はちゃんとその季節毎の旬の食材を一番美味しい時期に食べさせてくれる。
吐息が白くなり始めた今頃は、鮟鱇が美味い季節となる。冬の訪れを待ち、鮟鱇鍋をふぅふぅしながら燗酒を一献つけるのも格別だ。鮨店でも秋から冬はまた美味しい魚が登場する。僕の後輩には、夏が過ぎても「シンコ、シンコ。鮨はやっぱりシンコでしょう。」とぬかす輩が居るが、シンコは9月を過ぎると小肌に成るのだ。今頃から冬にかけてが一番脂が乗っていて、佐賀で揚がる小肌が素晴らしく美味い。白身の魚も春から夏は鰈(カレイ)が美味く、秋から冬場は平目が良い。平目の他にも真鯛、鱚(キス)、細魚(さより)もこれからが旬である。身も美味いが皮も美味い。これからだと大間の本まぐろも可成り美味いが、こればかりは懐と相談しなくちゃナぁ。
どうも自分の好物の鮨ネタの話になると我を忘れてしまいそうになる。野菜もこれからの時期は、しめじ、松茸、平だけ、椎茸と木の子が旬である。採れたての木の子をバターで香ばしく炒めれば、ワインが進む。しめじ雑炊なども味、食感、薫りと三拍子揃った寒い季節のご馳走だ。また、昔から「香り松茸、味しめじ」と云われているように松茸はその薫りが一番なので、土瓶蒸しなどでその深い芳香を楽しむのも幸せな食卓となる。
割烹などのカウンター前に座り、板前の主人から「さて、何をお出ししましょう。」と云われても、季節の魚介や野菜を告げるだけで一瞬にして場が和む筈だ。たとえ、その食材が入って無くても、ご主人は笑顔で「来週あたり、美味しい所が入りますよ。」などと粋に交わしてくれるのである。先日ふらりと入った蕎麦屋では壁に色紙が飾られていた。
蕎麦はまだ花でもてなす山家かな
これは芭蕉の句だが、今は丁度「新そば」の季節である。北海道から届いたばかりの新そばを打つご主人の人柄を、さり気なく掛けられた色紙から感じることが出来て、蕎麦の美味さはもちろんのこと、随分と居心地が良く感じられたのだった。
さて、最後に小噺をひとつ。家の庭に植えられた柿の木に沢山の実が成ってきた。これが頻繁に盗まれてしまうので困った家の主人、「この柿は渋柿です」と記した立て札を出したら、翌朝、その立て札の隅に「ちゃんと干し柿にして食べますのでご心配無用!」と書いてあったそうだ。
東京ではもう軒下に柿を吊るす光景などは見られなくなってしまったが、今が「柿のれん」の旬である。奈良の干し柿も美味いし、福島、山梨の「あんぽ柿」も12月初めから市場に出て来る頃だろうか。
出典:Kersol